16世紀のヴェネツィアには、色の美しさで知られる画家たちが集まっていました。その中心にいたのがティツィアーノと、40歳ほど年下のヴェロネーゼです。ふたりとも、ギリシャ・ローマの神話を題材にした絵をたくさん残しました。
同じ物語を描いても、画家が違えば、選ぶ場面も、画面の空気もまったく変わります。この記事では、ふたりが描いた「エウロペの略奪」と「ディアナとアクタイオン」を並べて、その違いを見ていきます。どちらも古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』に出てくる話です。
ヴェネツィアの先輩と後輩
ティツィアーノ(1488年ごろ – 1576年)は、若いころからヴェネツィアの第一人者として活躍し、ヨーロッパ中の王や貴族から注文を受けた画家です。晩年には、筆の跡を残した大胆な描き方になり、指で絵の具をのばして描いたとも伝えられています。
ヴェロネーゼ(1528年 – 1588年)は、その名のとおりヴェローナの生まれです。20代の半ばにヴェネツィアへ移り、ドゥカーレ宮殿(ヴェネツィア共和国の政庁)の天井画などで名を上げました。明るく澄んだ色と、華やかな衣装の人物を大勢並べた、晴れやかな画面が持ち味です。
ヴェロネーゼがサン・マルコ図書館の天井画を描いたとき、老ティツィアーノがその出来をほめて、若い画家を抱きしめたという話も伝わっています。ふたりはライバルであると同時に、同じ町で影響し合った先輩と後輩でした。
エウロペの略奪:海の上の一瞬と、出発前のにぎわい
神々の王ゼウス(ローマ神話のユピテル)は、フェニキアの王女エウロペに恋をし、真っ白な美しい牡牛に姿を変えて近づきました。浜辺で遊んでいたエウロペは、おとなしい牛に花輪をかけ、その背中に乗ってしまいます。すると牛は急に海へ駆け出し、エウロペを乗せたまま、はるかクレタ島まで泳いでいきました。

ティツィアーノが描いたのは、牛がすでに沖へ出たあとの場面です。エウロペは牛の背中で大きくのけぞり、赤い布を振りかざしています。岸辺の侍女たちは、左奥にほんの小さく見えるだけです。空にはキューピッドが飛び、海では魚に乗ったキューピッドがついてきます。荒い筆づかいの海と空が、エウロペの驚きと、もう戻れないという感じを強めています。この絵は、スペイン王フェリペ2世のために描いた神話画のシリーズの1枚です。

ヴェロネーゼのほうは、ずいぶん雰囲気が違います。画面の中心にいるのは、横たわった白い牛に腰かけたエウロペです。侍女たちが周りを囲んで、エウロペの衣装を整えています。牛は花輪で飾られ、キューピッドが手綱のように花の綱を引いています。エウロペは真珠の首飾りを着け、つややかな絹の衣装をまとっていて、まるでヴェネツィアの貴婦人のようです。
右の奥をよく見てください。牛に乗って岸を離れていくエウロペの姿が、もう一度小さく描かれています。1枚の絵の中に、時間の違う場面を並べて物語を語る描き方です。ヴェロネーゼは、物語の怖い場面よりも、その手前のにぎやかで美しい時間を選びました。ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿にも、よく似た構図のヴェロネーゼの作品があります。
ディアナとアクタイオン:見つかる瞬間と、変わりはじめた姿
狩人のアクタイオンは、森で狩りをしている途中、偶然に泉へ迷い込みました。そこでは、狩りと月の女神ディアナ(ギリシャ神話のアルテミス)が、ニンフ(森や泉の精霊)たちと水浴びをしていました。女神の裸を見てしまったアクタイオンは、怒ったディアナに水をかけられ、鹿の姿に変えられてしまいます。そして、自分が連れてきた猟犬たちに追われることになりました。

ティツィアーノの絵は、アクタイオンが赤い幕を押し上げ、女神たちと目が合ってしまった、まさにその瞬間です。ニンフたちは驚いて体を隠し、右側のディアナは額に三日月の飾りを着け、身をよじってアクタイオンをにらんでいます。右奥の柱の上には、鹿の頭の骨が置かれています。これから起こるアクタイオンの運命を、そっと知らせているのです。この絵も、エウロペと同じフェリペ2世のためのシリーズの1枚です。

ヴェロネーゼの絵では、アクタイオンは主役の位置にいません。画面の左上、木の陰を探してみてください。赤い服の狩人が木の幹につかまっていますが、その頭はもう角のある鹿に変わりはじめています。手前では、ニンフたちが水の中で身をかがめたり、腕を広げたりしています。ティツィアーノが「見てしまった瞬間」を正面から描いたのに対して、ヴェロネーゼは「変身がはじまったあと」を、森の景色の中に小さく描き込みました。
この絵は、明るい色で知られるヴェロネーゼにしては、全体が茶色っぽく、筆の跡も目立つ1枚です。夕暮れのような森の光の中に、物語が静かにしまい込まれています。
見比べるときのポイント
ふたりの絵を見比べるときは、次のところに注目すると違いが分かりやすくなります。
| 見るところ | ティツィアーノ | ヴェロネーゼ |
|---|---|---|
| 選ぶ場面 | 物語がいちばん動く一瞬 | その前後の、にぎやかな時間や静かな時間 |
| 人物 | 少ない人数を大きく、劇的に | 大勢を並べ、衣装や装飾も見せる |
| 筆づかい | 晩年は荒く、筆の跡を残す | 輪郭のはっきりした、なめらかな描き方が多い |
| 画面の空気 | 驚き・緊張・ドラマ | 祝祭・優雅さ(ときに静けさ) |
もちろん、どちらの画家にもこの表に当てはまらない作品があります。ヴェロネーゼの「ディアナとアクタイオン」のように、意外な一面を見せる絵に出会うのも、見比べる楽しみのひとつです。
まとめ
ティツィアーノは、神話のいちばん劇的な瞬間を、荒々しい筆で大きく描きました。ヴェロネーゼは、物語の前後の時間を選び、人々の衣装や景色まで含めて、画面全体を楽しませるように描きました。
同じ物語を知っていると、画家がどこを選び、何を描かなかったのかが見えてきます。エウロペやディアナのほかにも、ふたりは愛の女神ヴィーナスや、その恋人マルスなどを描いています。作者のページから、ふたりの神話画を見比べてみてください。
アイキャッチ画像:エウロペの略奪(Capitoline Museums / Wikimedia Commons (Public domain))











